2006年 05月 10日
上手な断り方
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海外で、日本語のように「いいです」、とか「結構です」、といった否定の語を用いずに断る手段を私は知らない。
バリ島のたびでも私は困っていた。私が泊まっていた宿の主人は自らが描いた絵を私に見せてくれた。それは確かにきれいな絵だとおもった。しかし、私はそれをほしいとは思わなかった。断るためのいい理由はそのとき思い浮かばななかった。
「値段が高いから。」いや、今私が泊まっている宿の1泊分でしかない。
「おみやげで持ち帰るには大きい。」いや、私はあらかじめ大きいのは持って帰れないことを伝え、主人は小さな額に入ったものを用意したのだ。
困った表情を浮かべる私を見て、主人は「Tidak mau?」と尋ねた。そのまま訳せば「ほしくない」と完全否定になってしまう。英語で言えばいいではないか、とも考えたが、「No thank you」しか知らない。これもやはり否定の要素が加わる。
「あなたの絵はとても色彩豊かで、細かく描かれ、バリの日差しに負けない力強さを感じる、でも・・・」そんな表現を現地の言葉でも英語でも話せる力は私にはない。
悩んだ末、私は「Maafkan saya(ごめんなさい)」といって断った。それでもしばらく自分自身に気まずい思いが残った。
翌朝、私はウブド南部の集会場でウパチャラというヒンドゥーの儀式を見ていた。その儀式に参加している方に「Boleh saya ambil foto?(写真撮ってもいいですか?)」と尋ね、了解をいただいて写真を撮っていた。
夕方、再びその儀式を見に行き、日中ちょっと話をしたガムラン奏者の人に無理を承知で「カメラのフラッシュを使うことはできませんか?」と尋ねたとき、その人はこう答えたのだ。
「見て楽しんでください。」
それは見事なまでの否定を伴わない断りの表現だった。なんという奥ゆかしさだろうか。バリにはゆるやかなカースト制度が残っていて、その大多数がスードラという平民層に属し、高い階層に対する敬語や物腰がこのような表現をうむのではないだろうか。
帰りの飛行機でフライトアテンダントから飲み物のおかわりを聞かれたとき、うまく断ろうと思って「Saya sudah kenyang(おなかいっぱいです)」といったら無表情のまま口だけでハハハと笑われてしまった。
上手な断り方って難しいな。
バリ島のたびでも私は困っていた。私が泊まっていた宿の主人は自らが描いた絵を私に見せてくれた。それは確かにきれいな絵だとおもった。しかし、私はそれをほしいとは思わなかった。断るためのいい理由はそのとき思い浮かばななかった。
「値段が高いから。」いや、今私が泊まっている宿の1泊分でしかない。
「おみやげで持ち帰るには大きい。」いや、私はあらかじめ大きいのは持って帰れないことを伝え、主人は小さな額に入ったものを用意したのだ。
困った表情を浮かべる私を見て、主人は「Tidak mau?」と尋ねた。そのまま訳せば「ほしくない」と完全否定になってしまう。英語で言えばいいではないか、とも考えたが、「No thank you」しか知らない。これもやはり否定の要素が加わる。
「あなたの絵はとても色彩豊かで、細かく描かれ、バリの日差しに負けない力強さを感じる、でも・・・」そんな表現を現地の言葉でも英語でも話せる力は私にはない。
悩んだ末、私は「Maafkan saya(ごめんなさい)」といって断った。それでもしばらく自分自身に気まずい思いが残った。
翌朝、私はウブド南部の集会場でウパチャラというヒンドゥーの儀式を見ていた。その儀式に参加している方に「Boleh saya ambil foto?(写真撮ってもいいですか?)」と尋ね、了解をいただいて写真を撮っていた。
夕方、再びその儀式を見に行き、日中ちょっと話をしたガムラン奏者の人に無理を承知で「カメラのフラッシュを使うことはできませんか?」と尋ねたとき、その人はこう答えたのだ。
「見て楽しんでください。」
それは見事なまでの否定を伴わない断りの表現だった。なんという奥ゆかしさだろうか。バリにはゆるやかなカースト制度が残っていて、その大多数がスードラという平民層に属し、高い階層に対する敬語や物腰がこのような表現をうむのではないだろうか。
帰りの飛行機でフライトアテンダントから飲み物のおかわりを聞かれたとき、うまく断ろうと思って「Saya sudah kenyang(おなかいっぱいです)」といったら無表情のまま口だけでハハハと笑われてしまった。
上手な断り方って難しいな。
by asiax
| 2006-05-10 21:58
| インドネシア(バリ島)