2009年 07月 12日
村ごはん
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コントゥム村を散策中、一軒の軒先からおばさんが声をかけてきた。それはおそらくベトナム語であろう。でも、このたびの中でずっと聞き続けてきたそれとはちょっと違うようにも聞こえた。それは、息を吐き出すような音であったり、やや濁ったような音であったり、どちらかというと東南アジアの山岳民族の発音に近いものを感じた。
ほとんど通じていないはずなのに、私たちは長い間言葉を交わしあい、なぜか私はおばさんに日本語で「こんにちは」とか、「ありがとう」という言葉を教えていた。
しばらくすると、おばさんは腕を伸ばして一つの方向を指差した。その方向は村の農地が広がっているところで、ちょっと前にその道を歩いたものの、めぼしいものも見つからずに引き返したばかりだったのだ。その先に何かがあるとは思えないけれど、おばさんの指示を無視して違う方に向かうのも失礼な気がして、とりあえず行ってみることにした。
その道はやはり農地が広がっているだけで、その先に別の集落があるとか、人々が集まって収穫祭をとりおこなっているとか、そんな雰囲気は全くなくて、村から遠ざかるほどに人の気配もなくなり空しさが募ってきた。
10分以上はもう歩いただろうか。砂埃を撒き散らしながら2台のバイクが向こうからやってきた。
「ハロー」
4人の若い女性たちだった。彼女たちはバイクを止め、「どこからきたの?」とか「これからどこへ行くの?」と英語で尋ねてきた。
これからどこへいくのか。私にも分からない。
- 散歩です。 -
違うような気もするが、そうとしか答えようがなかった。
「私たちはコントゥム村に住んでいるんですよ。これからキャッサバの葉を使った料理を作るんです。あなたも私たちに加わらない?」
- えっ? -
話がちょっと出来過ぎではないだろうか。英語を話す若い女性たち、しかもこんな農地に囲まれた場所ですれ違っただけなのに。私は返答に困惑した。
サングラスをかけていた一人の女性がそれをはずした。とてもきれいだ。でも、彼女の表情はあきらかに欧米系の血が混ざったように見えた。事実、彼女の話す英語だけはネイティブに近いものだった。
ガイドブックの巻末に載っている、旅のトラブルの事例にあるカード詐欺や睡眠薬が頭をよぎる。断ったほうがいいのではないか。でもなんていって断ればいいのだろう。言葉に詰まっている間に彼女たちは1台のバイクに3人乗り、もう1台の荷台に私を促した。
バイクが歩いてきた道を引き返す。いったい私はどこに連れて行かれるのだろう。
- あらっ? -
村に戻ると、立ち止まったその家は先ほどのおばさんの家だった。そして、一人の女性が
「うちの母です。」
と言って紹介した。
そうだったんだ。さっきおばさんが指をさしたのは、「この向こうにうちの娘がいるから、あの子なら英語も話せるし、会ってきんしゃい。」みたいなことを言っていたのだろう。
それから料理の下ごしらえをはじめた。杵と臼のようなものを使ってキャッサバの葉を叩いて水分が出てくるまでしなしなにする。それをみんなで代わる代わる続けた。
村の子供が枝にについたライチの実を持ってきてくれた。日本で売っている冷凍や缶詰と違い、甘味や酸味がいっぱい詰まっていた。
集まってきた子供たちとドッジボールのような遊びをはじめると、私の不安は薄れていった。
欧米系のその女性は、村人たちとベトナム語に英語を交えながら話していた。どうも英語を教えているようだ。もしかしたら、彼女はNGOのスタッフで、村落開発のプログラムのかたわら、村人たちに英語教育をしているのではないだろうか。話しかけてみたいと思いながらも、自分の英語力ではうまく尋ねる自信も、答えを聞き取れる自信もなくて、結局できずにいた。
食事が出来上がるのを待っている間、この家のお兄さんと英語で話をした。
「この町は元々私たちバニャールが住んでいた土地。その後やってきたのはフランス人。彼らが私たちにキリスト教を広めたんだ。だから私たちはクリスチャンなんだよ。ベトナム人がやってくるのはその後だよ。」
今、コントゥムの町の中心はベトナム人によって成り立っていて、コントゥム村の他、いくつかのバニャールの村が町のはずれに追いやられている。こんな場所でも、世界の都市の形勢の縮図が垣間見えた。
その人の英語はゆっくりで、とても分かりやすかった。私が英語を話すとき、一度日本語で考えて、それを英語に訳して話すように、彼も同じような手法で話しているのだろう、と思った。
食事が並びはじめた頃、もう外は暗んでいた。先ほど叩いたキャッサバの葉や、バナナの蕾、ナスの料理が並んだ。どれも味気なくて、ほろ苦くて、おいしいといえるものではなかった。
でも、かつてNGOのツアーでタイ北部の少数民族の村を訪問したときは、村で放し飼いにされた豚や鶏を使ったおもてなし料理であったり、私たちの口に合うようなものに味付けされたものであったりした。
肉も化学調味料も使わない、彼らの本来の食事に私は満足し、そして感謝した。
帰り道、なんであんなに彼女たちのことを疑い、警戒してしまったのだろう。
どうして彼女たちのやさしさを素直に受け入れられなかったのだろう。
そんな後悔ばかりが頭をよぎった。
ほとんど通じていないはずなのに、私たちは長い間言葉を交わしあい、なぜか私はおばさんに日本語で「こんにちは」とか、「ありがとう」という言葉を教えていた。
しばらくすると、おばさんは腕を伸ばして一つの方向を指差した。その方向は村の農地が広がっているところで、ちょっと前にその道を歩いたものの、めぼしいものも見つからずに引き返したばかりだったのだ。その先に何かがあるとは思えないけれど、おばさんの指示を無視して違う方に向かうのも失礼な気がして、とりあえず行ってみることにした。
その道はやはり農地が広がっているだけで、その先に別の集落があるとか、人々が集まって収穫祭をとりおこなっているとか、そんな雰囲気は全くなくて、村から遠ざかるほどに人の気配もなくなり空しさが募ってきた。
10分以上はもう歩いただろうか。砂埃を撒き散らしながら2台のバイクが向こうからやってきた。
「ハロー」
4人の若い女性たちだった。彼女たちはバイクを止め、「どこからきたの?」とか「これからどこへ行くの?」と英語で尋ねてきた。
これからどこへいくのか。私にも分からない。
- 散歩です。 -
違うような気もするが、そうとしか答えようがなかった。
「私たちはコントゥム村に住んでいるんですよ。これからキャッサバの葉を使った料理を作るんです。あなたも私たちに加わらない?」
- えっ? -
話がちょっと出来過ぎではないだろうか。英語を話す若い女性たち、しかもこんな農地に囲まれた場所ですれ違っただけなのに。私は返答に困惑した。
サングラスをかけていた一人の女性がそれをはずした。とてもきれいだ。でも、彼女の表情はあきらかに欧米系の血が混ざったように見えた。事実、彼女の話す英語だけはネイティブに近いものだった。
ガイドブックの巻末に載っている、旅のトラブルの事例にあるカード詐欺や睡眠薬が頭をよぎる。断ったほうがいいのではないか。でもなんていって断ればいいのだろう。言葉に詰まっている間に彼女たちは1台のバイクに3人乗り、もう1台の荷台に私を促した。
バイクが歩いてきた道を引き返す。いったい私はどこに連れて行かれるのだろう。
村に戻ると、立ち止まったその家は先ほどのおばさんの家だった。そして、一人の女性が
「うちの母です。」
と言って紹介した。
そうだったんだ。さっきおばさんが指をさしたのは、「この向こうにうちの娘がいるから、あの子なら英語も話せるし、会ってきんしゃい。」みたいなことを言っていたのだろう。
村の子供が枝にについたライチの実を持ってきてくれた。日本で売っている冷凍や缶詰と違い、甘味や酸味がいっぱい詰まっていた。
集まってきた子供たちとドッジボールのような遊びをはじめると、私の不安は薄れていった。
欧米系のその女性は、村人たちとベトナム語に英語を交えながら話していた。どうも英語を教えているようだ。もしかしたら、彼女はNGOのスタッフで、村落開発のプログラムのかたわら、村人たちに英語教育をしているのではないだろうか。話しかけてみたいと思いながらも、自分の英語力ではうまく尋ねる自信も、答えを聞き取れる自信もなくて、結局できずにいた。
食事が出来上がるのを待っている間、この家のお兄さんと英語で話をした。
「この町は元々私たちバニャールが住んでいた土地。その後やってきたのはフランス人。彼らが私たちにキリスト教を広めたんだ。だから私たちはクリスチャンなんだよ。ベトナム人がやってくるのはその後だよ。」
今、コントゥムの町の中心はベトナム人によって成り立っていて、コントゥム村の他、いくつかのバニャールの村が町のはずれに追いやられている。こんな場所でも、世界の都市の形勢の縮図が垣間見えた。
その人の英語はゆっくりで、とても分かりやすかった。私が英語を話すとき、一度日本語で考えて、それを英語に訳して話すように、彼も同じような手法で話しているのだろう、と思った。
でも、かつてNGOのツアーでタイ北部の少数民族の村を訪問したときは、村で放し飼いにされた豚や鶏を使ったおもてなし料理であったり、私たちの口に合うようなものに味付けされたものであったりした。
肉も化学調味料も使わない、彼らの本来の食事に私は満足し、そして感謝した。
帰り道、なんであんなに彼女たちのことを疑い、警戒してしまったのだろう。
どうして彼女たちのやさしさを素直に受け入れられなかったのだろう。
そんな後悔ばかりが頭をよぎった。
by asiax
| 2009-07-12 17:11
| ベトナム